高野山には死者葬祭の歴史があるといわれるように、納骨供養の「日本総菩提所」として
宗派にかかわらぬ全国の深い信仰を集め、今日におよんできます。
いまも年間百万の参詣者の大方は納骨かこれに代わる先祖の供養を目的としています。
そういった納骨参詣の高野山を形成するのに、大きな役割を果たしたのが「高野聖(こうやひじり)」でありました。
聖たちは日本を廻国しては、大衆に納骨参詣を誘引し、時には、委託された遺骨を運んだり、野辺の白骨を拾うことさえしながら、
死者の霊を仲立ちとして高野山を大衆に浸透密着化させていったのであります。
そういった歴史の中にあって、当院は、早くより宿坊として栄えました。鎌倉末期においては、
融通念仏宗の中興の祖、法明上人が登山され、徳治2年(1307)故郷河内の国にお帰りになり、
大阪平野大念仏寺を再興されるまでの約十年間、当院を修行の道場として密教を体得されるのであります。
その後、天正年間、当院十六世、勢尊法印が、山陽・山陰の二道を巡錫された折、
毛利元就公の深い帰依を受け、師壇の関係を結ばれるのであります。
さらに二代毛利輝元公の時より、知行五十石を付され、以来、毛利家の信仰は篤く当院を菩提所と定め、
歴代の建牌、石塔の建立は、数十基を数えるに至り歴史の深さを物語っています。
境内にある金蔵院は、愛染明王(重要文化財)を本尊として、天長9年に建立されたものです。
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